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哲学の授業を通して学んだ「相対性」とそれに基づく「行動理念」

哲学を勉強し始めた時、自分は一つの大きな危惧を抱くようになっていた。それは、自分が意見の一つも持てなくなるのではないかという危惧だ。

なぜなら、紀元前という遥か昔から頭のいい哲学者が知恵を捻って物事の正しさや方向性や価値を推し量り止揚を続けてきた歴史を見るにつけ、正しさの相対性について実感するようになって、もはや自分など1つの意見も持つ必要がない(べきではない)と感じるようになってしまったからだ。

しかし後半になってだんだんと気付いてきた。大々的に意見を言っている人は、そんなこと承知の上で発言しているということに。正しさとは相対的で、こうあるべきだとかこれはやっちゃダメとかいう意見が世界全体から正解と判定される日はこない、それでも彼らは発信を続けているのだと。

だからたかだかなんでもない学生であっても、ブッ飛んだ意見しか出さないとしても、それでも俺はこう思うということを考え続けておくことが重要なのだ。そのことに気付いてだいぶ肩の荷は降りた気がした。

だから誰かに賛成したり自分なりの考えを持ったりという営みを、拙い考えであると自覚した上で続けていく覚悟が改めて決まった。大切なのは情報を仕入れて自分の頭で考えて、自分なりの意見を常にアップデートしていること。

僕たちは世界を変えることはできない。でも十分に見つめることはできる。

世の中の相対性を自覚しよう。人を非難しなくなる。自分なりの正しさ誠実さを追求しよう。自信が持てる。意見を持てる。自立できる。

(1年前の新宿南口近く。)

哲学の授業をきっかけに、というわけではないが、哲学が一つの援用材料となり数ヶ月前に自分に一つの理念を作った。「自信を持つ」ということだ。

これは傲慢に慣れようという意味ではもちろんない。「結果的に自信を持っている状態であるということは重要だ」という意味である。

思うに自信を持つには二つの要素が必要になる。「自分の行動言動に責任を持つ」ということと「"自分なりの"正しさと誠実さを追求しアップデートし続ける」ということである。

まず一つ目の要素について。自分が何らかのアクションを取る際に、のちに責任逃れしたり環境のせいにできる要素があれば、常に自信を持って行動することはできない。自分は自分が責任を持てる範囲で行動してこそ、真に責任を持って行動することができる。このことは周りを不幸にさせない上で重要である。そのことは突き詰めれば自分を不幸にさせないことにもつながる。

次に二つ目の要素について。これは先に述べた哲学のエッセンスが含まれている。正しさや誠実さといったものは相対的であり、正解というものが存在しない。しかし、だからと言ってその追求を諦めると自信を持って日々を生きることができない。従ってあくまで自分のバックボーンや知識の中で現状最大限の知見を見出して、アップデートを続ける暫定的な軸を元に行動することこそが重要なのではないかと考えた。このことは、思考を通して自分自身をアップデートすることに繋がるほか、行動が何らかの根拠に紐付いていることによって他者から見た信頼度が高まることにつながる。

自信を持って行動した結果が失敗なのであれば、自分で尻を拭えばよい。そこに後悔の念はないだろう。こうしたサイクルを日々健全に行えるように、まずは上記の2つの要素を、今後も徹底していきたいと考えている。