綴る男、綴られる東京

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障害のある方(と現時点において規定される方々)へ感じる身も蓋もない感動について。あるいは、意志が疎通すること。

先にお伝えしておきたいことは、これは差別でもなんでもなく、テレビを見ていた僕の直感を言語化したに過ぎない。気遣いでもなければ、まさか区別を先鋭化させようなどという発想はまるっきりない。

 

...

 

耳が聞こえなくても、目が見えなくても、軽度の知的障害(とされる症状)があっても、健常者(とされる人間)と意思疎通を取ることができること、それ自体に対する客観的な、純粋な感動、

というものが僕の胸の内に認められる。

 

 

感情表現の幅が健常者(とされる人間)より見た目上狭くても、確実に、十分に豊かな感情が発達している、と見受けられることに対する感動。

 

あるいはまた、彼らのなかで十分に豊かな感情が発達しており、形式ではなく謂わば第六感のような領域で、自分自身もまた彼らの表現から豊かな感情情報を受け取ることができているという実感に対する感動。

 

つまるところ、耳が聞こえなくても、目が見えなくても、軽度の知的障害(とされる症状)があっても、健常者(とされる人間)と意思疎通を取ることができることに対する感動。

 

24時間テレビがどうこう、といったお話は今更お話する気すら起きないが、こうした種類の感動については、自分には確実にある。

人間というのは、そもそも「他者と意志が疎通すること」そのものが喜びである、そんなことを、彼らが教えてくれている。

 

和風総本家を見て、ふと思った夜。

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そう言えば、初対面の他者にも「このトピックについてココまで言ってしまったら、どのように受け取られるだろうか?」と思いながら発した一言が、思いの外受け入れられて喜んだりすることが度々ある。

そうした行為はいつもしている。そんなことを自覚した。ガキの頃からしている。

 

勇気を出して「発し」、「受容」され、「反応が返ってくる」こと、一連のサイクルそれ自体に喜べるようプログラムされているんだな、人間は。