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『おたくはすでに死んでいる』(新潮新書)を読んで、なぜ死んだのか原因を考察してみた

 筆者の岡田斗司夫氏はこの本の中で、「現在オタクというジャンルの人間はいなくしまったのではないか」と指摘した上で、今のオタクと昔のオタクについての相違点を以下のように語っている。

・ 昔は「ジャンルは違えど俺たちはオタク」という共通意識があった。

・ 昔は異なるジャンルの住民同士が「お前らはオタクじゃない」などと言い争う場面がなく、仲間意識の共有があるのみだった。今は「萌えを分からない人間はオタクじゃない」などと簡単に「オタク」クラスタから排斥される場面がある。

・ 昔のおたくは自分の嗜好するジャンルに対する「好き」という衝動を抑えきれず、周囲に魅力を伝える姿勢があった。(今のオタクは自らイベントを開催すること等はせず、グッズ収集やイベント参加など「ウチに閉じた」楽しみ方しかしない)

・ 以上を踏まえて昔のおたくは(簡単に言うと)今より常識人で賢明であった。

 確かに、筆者が本の中で取り扱っている今の「オタクを自称しアキバに通うクラスタ(すでにオタクではなくなってしまっているとされる)」の特徴に私自身も共感出来る部分がある。その原因を考えてみたが、主に3つの引き金があるように思われる。

 一つ目は、かつては多様な趣味を個々に持ち、その熱狂が高じてアクティブに動きまわっていた「オタク」がその姿を変え、00年代以降の自称オタククラスタが「セカイ系若者」のるつぼになったことによる影響である。さらにその背景には2つの理由がある考えている。一つはインターネットの全国的な普及により、内に閉じた趣味追求行動が簡単で多様になったことと、もう一つは、昨今の自称ヲタク層が幼い頃から「セカイ系」のアニメや漫画に慣れ親しんできたからではないかと推測される。

※1 私は「セカイ系」という言葉を「生活の中で『社会』を意識しない」、「『自分の身近な世界』と『ネットの世界』しか意識しない」といった人間像を言い表すために使用している。
※2 「セカイ系」とは、アニメや漫画の作品の一分類であり、東浩紀によると「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」と定義されている。WIkipedia参照。URL: http://goo.gl/g4qO

 二つ目は一つ目の引き金の発展系になるが、ネットはもとよりSNSの発達により、若者が帰属意識を感じるクラスタが徹底的に細分化されてしまったことによる影響である。このことにより「若者総オタク化」とも取れる状況が生まれたため、「萌え文化=この時代を生きるオタク(=他のクラスタはオタクじゃねえ!)」というこじ付けが生まれてしまい、また当の萌え文化クラスタに属す人々もそういうアイデンティティを抱くに至ったのではないだろうか。

 三つ目は、「若者の寄る辺なさ」がかつてないほどのレベルに達していることによる影響。「寄る辺なさ」の背景には高度成長期終了、個人主義の加速、ネット特にSNSの発達の3つの理由があると思われるが、このことにより、マスメディアの構築した「平成のステレオタイプオタク」像に帰属を求め若者が走ったのではないだろうか。

 以上で、かつて「オタク」と呼ばれていた人々が消えた背景を考察した。

 この本の著者は昔からの生粋のオタクであるため、このような昨今の状況を悲しんでいるようであるが、私個人的には、現在かつてのオタク像が消失し「自称オタク」クラスタが社会に存在していることを悪いことだと感じていない。

 何故なら、自称オタク層は自分がそうした層に属している、という自意識を持つことにより生きやすさを獲得していると思うからである。自身のアイデンティティというのは、この個人主義社会の中で自分と社会を繋ぎ止めるツールの役割を果たしていると考えている。

 確かに昔のようにアクティブな「鉄道オタク」「カメラオタク」といった層は減少し、さらに「萌えを理解しているナウでヤングなオタク(と自分が思っている)層がいわゆる『オタク』」という共通認識が今後も社会に蔓延していくかもしれない。しかし、今や何かマイナーな趣味を持つ人が社会からの逸脱と捉えらえる場面は殆ど無い。SNSを探せば共通の趣味を持つ人とはあっという間に仲良くなれる。社会全体としては00年代以前よりも生きやすいしゃかいになったと表現することができるだろう。

 「どのクラスタが『オタク』と呼ばれるようになったか」が変わっただけで、「(元来の意味の)オタク」は今も存在するのではないだろうか。