【都心から日帰りドライブシリーズ】相模湾を一望の「湘南平」展望台に行ったら夜景独占の超穴場スポットだった
シリーズ化する見込みもないのにシリーズ化しました。
都心から日帰りできるドライブスポットを紹介していくシリーズ第一弾になります。
期待できる目的地があると、ドライブ途中のワクワク感もひとしおなのです。
今回紹介するのは湘南平という、いわゆる「絶景」系スポットなのですが、約5年間東京に住んでいても、聞いたこともありませんでした。
地元が近隣の知人に言わせると「地元の人はみんなそこで告白する(そのあと山の麓のネオンのキラキラなr(ry))」ぐらいには有名らしいんですが、うん、知りませんでした。
とにかく地元住民にはこよなく愛されている模様です(ちなみに今回は家族連れしかいませんでした)。
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突然ですが、日帰りドライブシリーズ初回なので「電車ではなく車を使って遊ぶメリット」をご紹介したいと思います。
①電車では行きづらい場所に行けて、アクセス故に穴場な場所が多い
これは都心に住んでいると本当にすごいのですが、電車でのアクセスが難しい場所って、急に人の数が減ります。
週末に友達と遊ぶといえば、待ち合わせの駅から目的の場所、解散する駅に至るまで、どこもかしこも人まみれで、休まっている感覚があまり味わえないのが実情です。
週末の移動手段を車にしてからは、なかなか行けてなかったマイナースポットを目的地にすることも増え、人混みを気にせず骨の髄までリフレッシュすることができます。
②スポットまでの過程にも風景や寄り道を楽しめる
ドライブに慣れてくると、色々な見どころを「脳内地図」にマーク出来てきて、「あここも寄ろう!」っていうタイミングが増えてきます。方向感覚がつかめてきます。
例えば、どうせ横浜方面に走るならあの道を使って川崎の工業地帯を見物しながらの方が見ものだし車も空いてるし、とか、千葉方面行く途中であの駐車場に停めて●●町商店街に寄ってみよう、とか。
寄り道スキルが上がること自体も楽しいし、オトモしてくれる人にとっても偶然の面白さが味わえる一石二鳥状態です。
日頃電車移動している都内の人にこそ週末ドライブがオススメなのは、電車移動では立地上観れない街の景色が、ただ移動するだけでたくさん観れるからです。
③荷物が大量発生する用事にも対応できる
友達の買い物に付き合うのも楽しいですね。はい。
④プライベートな空間で気兼ねなく移動できる
本当はこれが一番の理由です。
休みの日に、電車で移動出来なくなってしまうくらい、移動自体が楽しいです。
大声で喋り倒すもよし、EDMをガンガンにかけて狂喜乱舞するもよし、TVタックルを観ながら政治を語るもよしです。
目新しい街を眺めながら、周囲を気にせずなんでもかんでも出来ちゃう移動空間は、マジで最高です(ただの車好き
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ちなみに、デメリットは酒が飲めないこと一点となっております()
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本題の「湘南平」です。
今回使った道路はこちらです。(多分)
普通に首都高から1号線で横浜まで行って、そのまま「横浜新道」で保土ヶ谷あたりまで行き、一度高速を下ります。
再び小田原厚木道路という高速にちょっくら乗って、ちょっとした山道を登りきった所にあります。
幹線道路を外れてからは人通りも車も少なくなって「いよいよ感」満載になってきます。到着直前、山沿いに進む怖すぎる細道が極めつけ、というわけです。
結構混んでましたが、都心からでも2hぐらいで着きました。
暗すぎて面食らった駐車場には車が20台ほど止まっていました。
駐車場を出て、5分ほど山を登っていくと、ありました、展望台です。
登ってみて、陸側(東京方面を観た方角)がこんな感じでした。
iPhoneで撮ったのでクソ画質ですスミマセン。
備え付けの望遠鏡を見せてくれる係的な役回りのオジサンがいて、覗かせていただきましたが、なんと東京タワーもスカイツリーも目視で観れました。すげえ。
もう少し海側を観たらこんな感じです。
広場があるので、昼は家族連れでも結構楽しいはずです。
鉄塔が建っていますが、これ、神奈川県のテレビ塔だそうです。
標高どれぐらいになるんだろう。
どちらにせよ、全方角なに一つ遮る物のないパーフェクトな見晴らしでした。
熱海方面の海側をみると、花火大会をやってました!
が一瞬で終わりました。
(※海側撮り忘れました、ぜひ行って観てください)
第一回、「湘南平」はこんな感じです。
(今気づいたんですが、正式名称ふつうに「高麗山公園」でした)
載せる予定じゃなかったのでめちゃ写真少ないですが、悪しからず。
夜景はもちろん、昼はランチもついでにイケるので、是非是非晴れの日に行ってみてください。
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ちなみに、いつもタイムズカープラスを使っているのですが、ギリギリまで利用料金を抑えるテクも今度書きたいと思います。
では!
田舎生まれ上京組の僕が、大学受験期において「田舎住まいであること」が圧倒的なメリットだと思う理由
大学の期末試験の勉強をしているときにふと思ったこと。
「東京に生まれてたら自分の場合、大学の受験勉強してなかったかもな」
↑これ。
高校生が勉強するモチベーションを高める上で、「田舎生まれ田舎住まい」であることは意外に大事なことかもしれない。
東京出身の友人と話しているとよく思うが、東京及びその近郊に住んでいる人は、早くから「東京ってこんなもん」っていう認識が早くから持てている。「東京という名の『夢の国』」幻想を良くも悪くも抱いていない。
一方で田舎暮らしの高校生は(これは自分の経験談であるが)「勉強しさえすれば、夢の国である東京行きのチケットが手に入る!」といった感じで、受験において「まったく新しい世界を目撃できる」という大きなモチベーションを持てる。
「まったくあたらしい世界を目撃できる」という部分が重要な気がしていて。
その理由としては、そもそも大学に行くという行為自体が「モラトリアム期における自分探しの旅」的な側面があると思うからだ。
高校生までは、暮らしの中でなんやかんや規制が多く、絶えず「半径3mの世界」と「ソトの世界」が区別させられざるを得ない。(もちろん高校の頃からパワフルに社会に関わる「強い学生」もいるけど。)
そうした状況の中で、まだ見ぬソトの世界に胸を膨らませている側面がかなりの割合の高校生にあるはずだ。「ソトの世界により勢いを持って、希望を持って飛び込んでいきたい」、そういう願望が結果的に受験生を後押ししているはずだ。
そのことから考えてみても、18歳まで「狭い世界」しか知り得ない「田舎生まれ田舎暮らし」という環境は例え東京に進学するわけではなくとも、受験において大きなモチベーションを生み出している気がしてならない。
とにもかくにも自分の場合は、最初から東京に住んでいたら、(生意気)にも世界の底をすでに見た気分になって、大して勉強せんかったかもしれんな(山口弁)と、ふと思った瞬間だ。
※もちろん、自分の信念や夢の実現手段としての「大学受験」であるのが一番だと考えている。しかし、18歳そこらでその辺りを突き詰めて考え得るためには、自己の精進のみならず家族や恩師などの「環境からのサポート」もどこかで重要になるだろうなとも思う。
個人的なブログ立ち上げ
これからはnoteに加えてこちらにも投稿していこうと思います。
noteはこちら→ https://note.mu/yuiwa
【復興】という言葉には嘘がある。
※以下は個人的な意見です。
9月に行った被災地取材を振り返った時の、「除染」に対する私の考えを述べたい。
「除染」と呼ばれているものは、居住エリア全体の地表を剥がして、住宅を雑巾で1つ1つ拭いて、放射性廃棄物を「移動」させる作業のことである。「汚染」を「取り除け」たりなどしていない。住宅を1つ1つ丁寧に除染したところで、何年も人の手が入っていない建物に再び住む事は実現可能性が低い。
被災地では、農家として生活していたお年寄りは、一から土地を耕す事に絶望している。原発そのものもしくは関連産業に従事し生活していた若者は、産業の消滅に際し、故郷で再び職を得ることに絶望している。期間も費用も、人が再び住めるようになるまでのプロセスに見当もつかない。そんな土地で、何兆円も除染()に投じた所で何になるのだ?
(放射能には「半減期」という物が存在する。何もしなくても、セシウムの線量は30年で半分になる。)
しかし政府は「復興」と叫ぶ。NHKは感情的に被災地復興を報道する。そして私たち現場を知らない国民は、どこか勘違いをしてしまう。増税を無抵抗に飲み込んでしまう。私たちは「『応援すべき』被災地のため」と考える。おかしい。もっと直接的に、合理的に被災者を支援するカネの使い方というものがあるはずだ。
このような形式で復興の名の下に除染が始まってしまうともう止まらない。私たちが死ぬまで、一生税金が投じられる。一人2万円を超える除染作業員の日当を、一生私たちの世代が背負い続ける。
本当はきっとチェルノブイリのように、放射能の収束と避難された方々の次なる生活の支援に全力を注げばいいだけなのだ。(チェルノブイリは住めない土地の除染などという不毛な作業はしていない)そして被災者の方々に対し、最も合理的に支援がなされる。それが「復興」というものだ。
東日本大震災における除染というのは感情的な問題で行われており、合理的に考えたらこのような復興プロセスは考えられない。本当に被災者そして日本人の未来を考えたら、現状に納得ができるであろうか。
ついでに言うと、土地が狭く地震の多い日本は原発稼働に世界で一番向いていない土地だ。本音ベースの「原発反対」を、もとは推進派であった小泉元首相だって認めているのだ。
それでも原発容認を唱える政治家や利害関係者は、
稼働中の原発の隣に住んで下さい。
さぞ庭の広い家が立てられるでしょう。
大学のとある講義でPCでのノート取りを禁止されたので反対意見を書きます。
「後期の授業は電子デバイスでのノート取りを禁止します。」
それはとある大学の後期のとある講義の第一講の冒頭、
担当講師から学生全員に対して突然告げられた。
「前期のテストの最中に、手元でスマートフォンを使いラインをしている者がいた。こういう事が起こると電子デバイスを禁止せざるを得ない」
ということだった。
僕はすぐにノートパソコンを閉じ、メモ帳とボールペンを鞄から取り出した。
そして腹が立った。なぜ他人の「テスト中のスマホ」が原因で
「自分の選んだ方法でノートを取る事」が禁止されなくてはならないのか。
そのことは何も関係がない事のように感じた。
その授業中、ノートこそ全範囲に渡り取り切ったものの、
終始集中する事は出来なかった。その間、色々な事を考えた。
大学の講義とは、
学生を性悪説で捉え行われるべきものなのであろうか。
大学の講義とは、元を正せば単に講義を受けたい学生たちが受験をし、(親にお願いをするなどして)学費を何らかの形で収め、その授業が行われる時間に集まっている、というそれだけなのではないだろうか。
もちろん、講師側も学生側も互いに人間である、最低限の礼儀は必要だ。
例えば大声で話をしたり、授業と関係のない事を講師側に見える形で
露骨に行ったりすることは無礼であり、教室を追い出されてしかるべきだ。
しかし、なぜ(音楽を掛けたり、関係のない画面を映したりなどをしない)
何の迷惑もかけていない一介の学生が、
「自身の考えによる選択でパソコンを使ってノートを取る」という事を単純に制限されなければならないのだろうか。
勿論、パソコンでのノート取りは学習効果を減少させるというデータは理解している。
しかしそれはあくまで只のデータだ。やりようは幾らでもある。
例えばパソコンで取ったノートを授業後印刷し、
見やすい形に手書きの文書などを加えまとめ直し、
自宅で復習して、等々工夫すればどうだろう。
・・・幾らでも成績は出せる。
そういう様々な戦略があって学生はノートの取り方を決定しているのだ。
それをテスト中のカンニング行為を根拠として突然禁止されては
学生の試行錯誤の戦略が意味も無く丸つぶれだ。
そうした色々を授業中に思った。
そして授業後、教壇に質問に向かった。
(録音出来ていなかったので、論理構成しか保証が出来ない事をお許し下さい)
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私「前期はPCでノートを取っていました。今回以降それが禁止される理由が理解出来なかったので、説明して頂けませんでしょうか」
講師「それは関係ない事をする人間が出てくるし、テスト中にスマートフォンを弄る人間まで出て来たので」
私「それはお伺いしました。しかしテスト中のスマホという極端な例で制限されるというのは理解出来ません」
講師「それに、パソコンでノートをとるよりノートに直接書き込む授業形態の方が成績が上がるというデータが出ている」
私「はい、そのことは調べたので分かります。しかし、それは授業の冒頭に先生に仰って頂ければそこで理解出来たのですが、今回の説明ですと『テスト中スマホを弄る人間もいたしお前達は電子デバイスを授業中持つと関係のない事をするだろう』という理由だけのように解釈されてしまったので」
講師「それはあなたがそう解釈したんでしょ?」
講師「それに基本的に私の指示に従わないということは、私は認めていません。」
私「自分の持つ授業だから、ということですね?」
講師「そうです。」
私「わかりました。紙に書いてノートを取ります。」
講師「はい。」
~~~
ということだった。
今回に関しては、予めノートの取り方が成績に関係するから、
という理由を授業の冒頭に話せば良かった話だ。
それであれば先生は学生たちの事を想い、
そういうルールを決めたという事になるからだ。
しかし授業の中では、
単に「お前らは電子デバイスで関係のない事をするやつらだから
電子デバイスは全面的に禁止!」という話でしかなかった。
超、性悪説だ。
ともかく、
私個人の意見としては、勝手な事をして単位を落とすとしても、
迷惑と不快感さえ人に与えていなければ、
後の判断は学生一人一人に委ねられるべきではないかと思う。
私はこんな中学校の頃のような息苦しさをこの歳になって
大学で感じることになるとは夢にも思わなかった。
リニア中央新幹線は国民にとって【第二の福島原発】である
皆様は「リニア中央新幹線」に
どういったイメージをお持ちだろうか?
大阪出張が捗る!
USJ、ディズニーに気軽に遊びに行けるようになる!
通過する地方が発展する!
…先進国日本がもっと発展する!
きっとこうしたイメージをお持ちであろう。
かくいう私もそうだった。
しかし実は、リニア中央新幹線はいくつもの疑惑を孕んでいる。
いくつもの問題を時速500km超のスピードで無視しているのだ。
そして問題の構図は原発推進の構図とリンクしている。
そのいくつかを紹介したい。
1:消費電力問題
リニア中央新幹線の消費電力は、
新幹線のおよそ3倍だとされている。
考えてみれば巨大な車体を浮かせるだけの磁力を発生させているのだ、
妥当な消費電力であると考える事が出来るであろう。
しかし、問題は3倍の電力消費をもって
運転スピードが新幹線の約2倍しか出せないことにある。
つまりエネルギー効率が悪い新幹線を、
これほど「省エネ」が叫ばれている今、必死で作っているのである。
どうりで世界中で日本しか開発していないわけである。
そして、新幹線の3倍ものエネルギーを消費する乗り物を作って、
果たしてどうやってその膨大な電力を賄うのか。
決まっている。『原発』だ。
事実、JR東海の葛西会長は3.11原発事故の2ヶ月後に
産経新聞で「原発継続しか活路はない」と発言している。
原発ありきの「オトナの夢」を実現させるだけのために、
強大な権力が原発推進に加担しているのだ。
2:電磁波問題
リニア中央新幹線は、
巨大な車体を浮かせる為に車体周辺に強力な磁場を形成する。
そこでは多量の電磁波が放たれるため電磁波被ばくの危険があるのだ。
電磁波に関する研究が進んでいない為に、
どのくらいの電磁波を浴びた時人体にどのような影響が出るか
わかっていない。乗車には危険が伴う。
この事を考慮しJR東海は対策を行う。
客室全体を金属のシールドで覆い、電磁波を防ぐとしている。
逆に言うと、シールドを作らなければならないほどの電磁波が
車体周辺で放たれるということである。
しかし、これまでにない速度での移動を実現させる為に
出来るだけ車体を軽くしたいと考えている中での対策なのだ、
ジレンマの中でどのレベルまで遮断可能なシールドになるのか、疑問が残る。
「問題はない、心配はない」と繰り返すJR東海。
その様子は原発の安全性を訴える姿と綺麗に重なる。
3:走行ルート問題
速度を維持したいというJR東海側の本音を紹介したが、
その事は走行ルートにも影響を及ぼしている。
速度を維持したいJR東海は、線路が出来るだけ直線になるよう、
半ば強引に東京-大阪間にルートを規定した。
そのことは以下3つの問題を引き起こしている。
① 直線で結ぶために、南アルプスを突っ切るルートを設定した。
何があっても直線を維持しなければならないのだ、
難工事によるコスト膨張は必至であろう。
ちなみにJR東海の山田社長は「(リニアは)絶対にペイしない」と発言している。
プロジェクトが失敗したら、JALのように税金が投入される可能性だってあるのに、だ。
② 直線で結ぶために、ルートの約9割がトンネルになった。
直線を維持しての用地買収を困難と判断して、
多くの場所で地下を通過するルートにしたからである。
が、残土の運搬による排気ガスや生態系の破壊、
地下水枯渇などが懸念されている中であり、引き起こされる環境破壊は
周辺住民への迷惑のみならず世界に対しても示しがつかない。
③ 直線で結ぶために、世界最大の活断層を通過するルートになった。
当然、乗車にはその分だけリスクが伴う。
更にリニア中央新幹線は無人運転で運用されるため、
有事の際に閉じ込められるのは乗客だけである。
なぜ、ここまでリニアに向いていない国に
わざわざリニアを走らせようとしているのだろう。
(国土が狭いのに建てまくっている原発と同じだ。)
そして仮に、新たにこれ以上の問題が発生したとしても、
9兆円規模の巨大プロジェクトを今更どうする事も出来ない。
もう誰も止められなくなっているのである。
その構図も原発と全く同じである。
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改めて、リニアをどのように考えますか。
様々な問題を抱えたまま、2014年リニア中央新幹線着工である。
こんなの作るの日本だけ。そんなに急いでどこへゆく。
【参考】
リニア中央新幹線がやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!
【「改革」あれこれ】 JR東海会長・葛西敬之 原発継続しか活路はない
※産経ニュースの元Web記事が削除されているためこちらを示す
ルートや駅は着々と決まるが……「リニア」残された疑問 JR東海社長「絶対ペイしない」と仰天発言
哲学の授業を通して学んだ「相対性」とそれに基づく「行動理念」
哲学を勉強し始めた時、自分は一つの大きな危惧を抱くようになっていた。それは、自分が意見の一つも持てなくなるのではないかという危惧だ。
なぜなら、紀元前という遥か昔から頭のいい哲学者が知恵を捻って物事の正しさや方向性や価値を推し量り止揚を続けてきた歴史を見るにつけ、正しさの相対性について実感するようになって、もはや自分など1つの意見も持つ必要がない(べきではない)と感じるようになってしまったからだ。
しかし後半になってだんだんと気付いてきた。大々的に意見を言っている人は、そんなこと承知の上で発言しているということに。正しさとは相対的で、こうあるべきだとかこれはやっちゃダメとかいう意見が世界全体から正解と判定される日はこない、それでも彼らは発信を続けているのだと。
だからたかだかなんでもない学生であっても、ブッ飛んだ意見しか出さないとしても、それでも俺はこう思うということを考え続けておくことが重要なのだ。そのことに気付いてだいぶ肩の荷は降りた気がした。
だから誰かに賛成したり自分なりの考えを持ったりという営みを、拙い考えであると自覚した上で続けていく覚悟が改めて決まった。大切なのは情報を仕入れて自分の頭で考えて、自分なりの意見を常にアップデートしていること。
僕たちは世界を変えることはできない。でも十分に見つめることはできる。
世の中の相対性を自覚しよう。人を非難しなくなる。自分なりの正しさ誠実さを追求しよう。自信が持てる。意見を持てる。自立できる。
(1年前の新宿南口近く。)
哲学の授業をきっかけに、というわけではないが、哲学が一つの援用材料となり数ヶ月前に自分に一つの理念を作った。「自信を持つ」ということだ。
これは傲慢に慣れようという意味ではもちろんない。「結果的に自信を持っている状態であるということは重要だ」という意味である。
思うに自信を持つには二つの要素が必要になる。「自分の行動言動に責任を持つ」ということと「"自分なりの"正しさと誠実さを追求しアップデートし続ける」ということである。
まず一つ目の要素について。自分が何らかのアクションを取る際に、のちに責任逃れしたり環境のせいにできる要素があれば、常に自信を持って行動することはできない。自分は自分が責任を持てる範囲で行動してこそ、真に責任を持って行動することができる。このことは周りを不幸にさせない上で重要である。そのことは突き詰めれば自分を不幸にさせないことにもつながる。
次に二つ目の要素について。これは先に述べた哲学のエッセンスが含まれている。正しさや誠実さといったものは相対的であり、正解というものが存在しない。しかし、だからと言ってその追求を諦めると自信を持って日々を生きることができない。従ってあくまで自分のバックボーンや知識の中で現状最大限の知見を見出して、アップデートを続ける暫定的な軸を元に行動することこそが重要なのではないかと考えた。このことは、思考を通して自分自身をアップデートすることに繋がるほか、行動が何らかの根拠に紐付いていることによって他者から見た信頼度が高まることにつながる。
自信を持って行動した結果が失敗なのであれば、自分で尻を拭えばよい。そこに後悔の念はないだろう。こうしたサイクルを日々健全に行えるように、まずは上記の2つの要素を、今後も徹底していきたいと考えている。
『おたくはすでに死んでいる』(新潮新書)を読んで、なぜ死んだのか原因を考察してみた
筆者の岡田斗司夫氏はこの本の中で、「現在オタクというジャンルの人間はいなくしまったのではないか」と指摘した上で、今のオタクと昔のオタクについての相違点を以下のように語っている。
・ 昔は「ジャンルは違えど俺たちはオタク」という共通意識があった。
・ 昔は異なるジャンルの住民同士が「お前らはオタクじゃない」などと言い争う場面がなく、仲間意識の共有があるのみだった。今は「萌えを分からない人間はオタクじゃない」などと簡単に「オタク」クラスタから排斥される場面がある。
・ 昔のおたくは自分の嗜好するジャンルに対する「好き」という衝動を抑えきれず、周囲に魅力を伝える姿勢があった。(今のオタクは自らイベントを開催すること等はせず、グッズ収集やイベント参加など「ウチに閉じた」楽しみ方しかしない)
・ 以上を踏まえて昔のおたくは(簡単に言うと)今より常識人で賢明であった。
確かに、筆者が本の中で取り扱っている今の「オタクを自称しアキバに通うクラスタ(すでにオタクではなくなってしまっているとされる)」の特徴に私自身も共感出来る部分がある。その原因を考えてみたが、主に3つの引き金があるように思われる。
一つ目は、かつては多様な趣味を個々に持ち、その熱狂が高じてアクティブに動きまわっていた「オタク」がその姿を変え、00年代以降の自称オタククラスタが「セカイ系若者」のるつぼになったことによる影響である。さらにその背景には2つの理由がある考えている。一つはインターネットの全国的な普及により、内に閉じた趣味追求行動が簡単で多様になったことと、もう一つは、昨今の自称ヲタク層が幼い頃から「セカイ系」のアニメや漫画に慣れ親しんできたからではないかと推測される。
※1 私は「セカイ系」という言葉を「生活の中で『社会』を意識しない」、「『自分の身近な世界』と『ネットの世界』しか意識しない」といった人間像を言い表すために使用している。
※2 「セカイ系」とは、アニメや漫画の作品の一分類であり、東浩紀によると「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」と定義されている。WIkipedia参照。URL:
二つ目は一つ目の引き金の発展系になるが、ネットはもとよりSNSの発達により、若者が帰属意識を感じるクラスタが徹底的に細分化されてしまったことによる影響である。このことにより「若者総オタク化」とも取れる状況が生まれたため、「萌え文化=この時代を生きるオタク(=他のクラスタはオタクじゃねえ!)」というこじ付けが生まれてしまい、また当の萌え文化クラスタに属す人々もそういうアイデンティティを抱くに至ったのではないだろうか。
三つ目は、「若者の寄る辺なさ」がかつてないほどのレベルに達していることによる影響。「寄る辺なさ」の背景には高度成長期終了、個人主義の加速、ネット特にSNSの発達の3つの理由があると思われるが、このことにより、マスメディアの構築した「平成のステレオタイプオタク」像に帰属を求め若者が走ったのではないだろうか。
以上で、かつて「オタク」と呼ばれていた人々が消えた背景を考察した。
この本の著者は昔からの生粋のオタクであるため、このような昨今の状況を悲しんでいるようであるが、私個人的には、現在かつてのオタク像が消失し「自称オタク」クラスタが社会に存在していることを悪いことだと感じていない。
何故なら、自称オタク層は自分がそうした層に属している、という自意識を持つことにより生きやすさを獲得していると思うからである。自身のアイデンティティというのは、この個人主義社会の中で自分と社会を繋ぎ止めるツールの役割を果たしていると考えている。
確かに昔のようにアクティブな「鉄道オタク」「カメラオタク」といった層は減少し、さらに「萌えを理解しているナウでヤングなオタク(と自分が思っている)層がいわゆる『オタク』」という共通認識が今後も社会に蔓延していくかもしれない。しかし、今や何かマイナーな趣味を持つ人が社会からの逸脱と捉えらえる場面は殆ど無い。SNSを探せば共通の趣味を持つ人とはあっという間に仲良くなれる。社会全体としては00年代以前よりも生きやすいしゃかいになったと表現することができるだろう。
「どのクラスタが『オタク』と呼ばれるようになったか」が変わっただけで、「(元来の意味の)オタク」は今も存在するのではないだろうか。